平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

▼△▼サタン罪状を天に訴える時が来た!「(一)お父様の真の愛の基準を知らなければなりません。」

(一)お父様の真の愛の基準を知らなければなりません。


①愛する妻、愛する子女がサタンの餌食に差し出される
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サタンの罪状を暴く為には、お父様の真の愛の基準を知らなければなりません。何故なら、サタンはお父様の愛に誘引されて中心家庭の奥深くに招き入られたからです。


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お父様の真の愛の基準は如何なる基準なのか??
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《平和の主人(9-2)》に


(=中心家庭にある真の愛)で残るのがスクリ(=サタン)しかいないことを知っているので、海(=中心家庭にある真の愛)を中心として天が審判(=真の愛の基準で審判)したのです。」


と語られているのも、サタンがお父様の真の愛に誘引されて最後まで残ると言うことをあらわしています。


まさに、お父様がサタンの相対者を中心家庭に招き入れたことがお父様の聖和の要因となり、サタンが子女様を殺害して追放した要因となり、サタンがお母様を飲み込んで幽閉してしまった要因となっています。
そして、最後に「海(=中心家庭)」に残ったのがお母様とサタンの遣いの二人(=お母様と金補佐官)であったのです。もちろん、お父様もおられます。
子女様が解放されることによってお母様も金補佐官も自分の罪を悔い改めるようになり、最終的にはサタンたった一人になって相対圏を失って解放されるようになります。


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サタンが「打とうとする思いがない時からでも進んで打たせる」という基準
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《平和の主人(3-5)(3-6)》には、『「お前は死んで、いなくなれ!」というのに、どうなるでしょうか。・・・・・この二つの大きな力(=金補佐官と金孝南女史)がここから押してあげることによって、(=お父様が)つぶれた(=聖和する)のです。


サタンの相対者とその仲間たち(=中心的存在は金補佐官と金孝南女史の二人)の悪行は、お父様の真の愛に誘引されて起こったことですから、これを証明するように、お父様の真の愛は「愛する者を犠牲にして、怨讐を愛する」という基準をもっていますので、お父様はお母様と子女様をサタンに差し出して、サタンがお母様と子女様の心情を蹂躙し続けてきたとしても、お父様はサタンの行為一切を許して来られたのです。


お父様の愛の基準はイエス様が言われた「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という基準よりも更に進んでサタンが「打とうとする思いすらない時からでも進んで打たせる」という基準です。
イエス様は個人段階ですが、お父様は家庭段階、更には、統一教会の祝福家庭までも動員するという世界的段階の基準で、打たせて復帰するという天の戦法を取られました。


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淫行を求めるサタンに対しても同様の基準
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その基準は更に、淫行を求めるサタンに対しても同様の基準を持っています。次の二つのみ言葉はその基準をあらわしています。
聖進様の母親》に「わたしの代わりに、わたし以上に愛しなさい」というみ言葉であり、《平和の主人(10-2)》「ラマ教(=統一教会)では、夫(=お父様)が自分の妻をお客(=サタンの相対者、金補佐官)に譲り渡すのです。」というみ言葉です。


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愛する妻、愛する子女がサタンの餌食に
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この様にお父様の真の愛の基準は、堕落感性からみたら考えも及ばない基準であり、見方によっては自分の妻を売り渡すようにも見えます。愛する子女様をも売り渡すようにも見えます。愛する妻、愛する子女がサタンの餌食になっているにもかかわらず、お父様は完全に見て見ぬふりをして見過ごしてしまうのです。


いや、正確な表現はサタンの餌食に差し出すというのですから、常識的価値観からすれば、最悪の夫であり、最悪の父の姿です。最も侮蔑される存在です。


現に、このこと故に、お母様から、子女様からお父様に侮蔑の言葉をかけられたとしても、サタンとその相対者とその仲間たちからお母様と子女様を守る為の防壁を作ろうとはされませんでした。それどころか、怨讐を常に許し愛し続けて、愛する者の痛みに耳を傾けることはなく遠ざけてきました。


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お父様は怨讐とは友人(子女)のように振る舞い、愛する者には怨讐のように振る舞いました。
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この愛の基準だけでもメシヤは誰にも理解されない狂人です。


お父様の愛の基準はこれだけではありませんでした。
これは次回です。

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