平和の主人 血統の主人

まさに、成約時代の毒麦となられたお母様

《 黙示録18章 3-10 節 》

3 地の王たち(幹部たち)は彼女(お母様)と姦淫を行い、地上の商人たち(教会長たち)は、彼女の(高額献金を得た)極度のぜいたくによって富を得た。

7 彼女(お母様)は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

10  彼女(お母様)の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえ(お母様)に対するさばきは、一瞬にしてきた。

◆◆第5弾「平和の主人」を理解していた金氏(イスカリオテのユダ)だから削除した

 6/27 仕事で広島に入り、翌日、朝一番で原爆資料館と原爆ドームを見てきました。

その時撮った写真です。


生々しい傷痕は負の連鎖から逃れられない人間の悲しみを感じました。


原爆資料館を訪れたのは二度目ですが、今回、平和の主人が頭から片時も離れない私にとっては、前回の見学とは全く違った心で見ることができました。


ちょっと余談ですが・・・、


平和の主人と関わってから起こるようになったのですが、
静かに聞こえたりしている聖歌が、この時も聞こえるのではないかと思って資料館に入りましたが、予想に反して聞こえて来ませんでした。


どうしたのかなと思いながら、展示されている資料を読んで回っているうちに聞こえてくるだろうと思っていましたが、聞こえて来ません。


聞こえてこない理由が分かるような気がして、いつも聞こえてくる聖歌、17番「誓い」を心でなぞるように私から歌い始めたら、遠くから静かに繰り返し繰り返し聞こえてくるようになりました。


5時間が過ぎて東京に着くというのに、耳を傾けるといつも聞こえていました。


話しを戻します。


人類歴史は殺戮と闘争の歴史でもあり、サタンは闘うことを教えます。
しかし、神様の救援摂理は闘わないで愛することを教えています。


イエス様はヨハネの福音書15章13節に
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛 はない。」と語られました。


イエス様が言われた「友」とは、弟子たちに語りながらも裏切りゆくイスカリオテのユダのことだったのだと、このブログを書きながら分かりました。


何故なら、イエス様はゲッセマネの祈りを終えた後、裏切ったユダに対して「友」と呼んでいるからです。私はそれまで「友」とは「隣人、兄弟、愛する人」を言っているのだろうと思っていました。


マタイによる福音書5:44-46に、
「 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
・・・あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」


マタイによる福音書 26:49-50 に、
『彼(ユダ)はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。
このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。』
とあります。


裏切られて死にゆく目前でも、イエス様はユダに対して怨讐として向き合わず、「友」として向き合われました。


神様の辞書には「怨讐」、「敵」、「仇」という文字はないのですね。


もちろん、お父様も同じです。
イエス様はユダの裏切りに対して「友」として命を捧げて逝かれました。
お父様も統一教会において40年の蕩減期間、ずーっと、「お客様」(10-4)として、金氏を怨讐を怨讐としてではなく、天宙的カインとして迎え入れたのです。


聖進様のお母様に対しても(10-4)と同じようなみ言があります。


お父様が勝利された四大心情圏、三大王権、皇族圏はそんな天宙的カインを愛するという、サタンを自然屈伏させる路程の中から、写真で言えばネガのような痕跡の勝利基準を立てられたのだと思います。


金氏とユダが重なりますので、み言を紹介します。
金氏に何があってその様な立場になったのかはお父様と金氏だけが知るところなのかも知れません。
しかし、ユダがイエス様を裏切るようになった背景については、お父様が「七七七双聖酒式後の御言 (イスカリオテのユダの問題) 1970年10月18日」 でみ言を残されています。




お父様はサタンを自然屈服させるために、摂理の核心となる金氏の事を誰にも語ることができませんでした。その為に、統一教会全体に、ここから全ての捻れ、歪み、混乱が起こり今日を迎えています。


サタンの誘惑によってエバが堕落し、更には、新しい智恵が入ることにより、時ならぬ時に第二の堕落がアダムと起こりました。


今度は反対に、天宙的カインが誰であったのか・・・、この秘密をお父様が語られた平和の主人によって「新しい真実を知る」ようになれば、50年に渡って統一教会全体を包み込んできた、捻れた、歪んだ、混乱した信仰から抜け出す時がようやく訪れたと言えます。


現在の信徒たちも「何らかの理由」があっての金氏の言動であったことを知って、金氏自身を決して責めるのではなく、彼の背後にいるサタンを神様の前に訴え出なければなりません。今まで、私も含めて彼の言動を責めることはあっても、サタンの罪状を神様の前に訴え出る信徒はほとんど見受けられませんでした。


そして、肺がんで苦しむ金氏の余命が如何程かは分かりませんが、彼の為に祈り、残された時間を大切にして自らの過ちを認めて悔い改めることができるようになれば、長年お父様に仕えてきた反省と悔い改めの手記を残せるかも知れません。そうすれば万民を悔い改めに至らせる教材として、平和の主人の補充版として永遠に残されるようになると思います。


金氏は17歳?、少年時代から青年に入らんとする時期に入教して家庭教師になった金氏に何があったかは分かりませんが、先ほどのみ言「七七七双聖酒式後のみ言」からみてユダと同じような愛の蕩減からくる試練があったのではないかと想像できます。


これはあくまでも平和の主人から見えてくるギリギリの映像です。


お父様の聖和三年前、平和の主人に初めて金氏が天宙的カインの立場にあったことを語られたわけですから、彼がユダの同じ轍を踏まないよう、金氏の側近のかたたちは彼が肺がんで死を迎える前に、反省と悔い改めに至るよう進言する必要があります。


お父様の無抵抗、闘わない、愛するものを差し出すという生き方は、この世では最も弱な男にしか見えません。 この世の人間には得体の知れない気持ち悪い男です。本当に理解し難い男、それがお父様です。


企業の社長ならば部下を守るのが普通です。自分を犠牲にして部下を守るなら少しはほめられます。


同じように父親が自分を犠牲にして妻と子供を守るなら少しはほめられます。


ところがお父様は、愛するものを怨讐のように扱って怨讐に差し出してしまうのですから。お父様はアメリカ映画の主人公に絶対になれません。


しかし、お父様の生き方は自分の為ではなく、神様の真の愛をあらわすためでした。


ならば、神様が軟弱な神様なのでしょうか?


それは違います。


何故なら、神の真の愛という性質には怨讐という概念が全くないからです。


神様は遠ければ遠いほど、神様に近いものを犠牲にしてまで愛される性質を持っています。


だからお父様は真の愛の性質について、上下関係ではなく水平の関係(2-5)(2-6)になると語られています。


水は真の愛のように自分の所に水が無くなることを知りながら、下に下に向かって流れていきます。


平和の主人はお父様が聖和を予知されながら私たちに与えられた命の書だったのです。



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